昭和40年04月03日 夜の御理解



 妹が今日久留米の叔父が、病院に入院しておりますんですが、ちょいちょいお見舞いにいくわけなんです。それにいきがけに家内が、お下がりの鯛を持たせてやったそうです。そしたらもう水も通らんように、重体の状態の中でも、やっぱりあの「金光様、金光様」とうわ言のようにゆうておる。そしてからその合間には、「鯛が食べたい、鯛が食べたい」と言いよる。そしてもう妹が鯛を持ってきたときには、ビックリその看護しよる兄弟やら、息子達が全部帰ってきておりますから、東京の方から。
 みんなでそのたまがってから本当にあんたが鯛が食べたい、鯛が食べたいって言いよった、椛目からこうして鯛を持ってみえ、お見舞いに頂いたよちゅてからそのしたら、涙流して喜んだということ。不思議なことがあるもんだというような意味のことを私に言うんですけどね。信心しておかげを受けるということは、不思議なことではない。受けないことのほうが不思議なことであるというようなですね。
 そういうおかげを現して行く為に、どうしても私共がやはり信心にでもです、何のことでもおんなし事ですけれども、通る所を通らせて頂かなければ、やっぱそうしたおかげになって来ない様ある、ね。通る所を通らせて頂くことが有り難い。今日古賀先生のところからお母さんが手紙を出しております。なんというですかね、ほんとにもう、椛目が慕わしゅうて、恋しゅうて、たまらんといったような手紙なんです。
 先日から、古賀先生のおばさんであります山口の先生が、ここにお参りされて、私が古賀先生のことを一生懸命お願いをしておる。あの人が悪いということ聞いてから、先生はほんと飛んでも行きたいような思いでおられる、それをおさえて、お許しがでるなら、一辺でも行ってやりたいんだけれども、そんな思いでお願いしよるっちゆうて、そのうちの親先生がいいよんなさったですよってその、まさのり先生がそういうことを仰っていたらしいですね。それをまぁ聞いたのでしょう。
 山口の妹が、こちらにお参りして来てから、いろいろと、御祈念をして頂きよることを、有り難うございますというて、そういうことを聞かせて頂きまして、まぁとたんに、いうならばその椛目が、慕わしゅうなったわけでもないでしょうけれども、まぁ慕わしいという、その思いでいっぱいなのですね。先日から桜井先生が、ちょっと、こうぐづついておられるようで、
 昨日久留米の三橋先生が、いや今朝でした、お参りをして参りましてから、桜井先生のことをお届けをしてから、言われるのに、27日の日でございましたが、桜井先生が私の方へ末永先生と一緒に入ってみえられるところを頂いた。そして桜井先生が入口でこけられたところを頂きましたと、どうぞおかげを頂かれますようにということであった。いわゆるこけておられるわけなんです。
 なるほど、あぁして熱心に、本当に福岡から椛目まで歩いてお参りされるといったような、熱心な信心をなさっておるんですけれども、それがです、本当に苦しまぎれにお参りするのとです、したわしゅうて、したわしゅうてというて参るのと、大変な違いであると。古賀先生あたり親子がです、ただ椛目で信心の稽古をさせて頂いて、2年間教えを頂いてから、椛目の信心は体得したと、と思うて帰った。
 ところが、椛目を離れたとたんに、寝込んでしまった。もう本当に途端だった。しかも、こんどは、難しかろうかというような、状態が続いて、ようやくまぁこの分だと段々おかげ頂いていくだろうというところまである。そして初めて椛目の慕わしさが分かってきよるという感じなんです。そういうような私は、おかげを頂いて、いわばうわ言でも、寝言でも椛目、椛目とこう言うようになったときです、ね、
 私は鯛が食べたい、鯛が食べたいとこういう。そこには、もう神様が鯛を持たせてやるごたる、鯛ということは、ここではおかげと仰るが、おかげを持たせてやってござるというような、おかげというのが、ほんにどげん考えたっちゃ不思議なことがあるというような、おかげが現れてくると私は思うんです。ね。信心しておかげを、霊験、霊験があることを不思議とは言うまじきものぞと、祈りでみかげのないときこそ不思議なることぞ、と仰るように。
 そういう、普通でいうならば、不思議なおかげをです、私共は頂かなければならないことがある。もう、これは、枯れ木に花といわれるようなその、こ心に花を咲かせてもらわねばならないようなことがある、どうでも助けて頂かなければならんというときがある、ね。そういうときのためにです、私共が日頃、椛目にひとつの憧れ念、憧念心を燃やし続けれるような信心。
 寝ても、覚めてもいうなら金光様、寝ても、さめていうならば椛目、椛目とそのうわ言にでも言うように、段々ならせて頂いたところにです、いわいる鯛が欲しい、鯛が欲しい、おかげが欲しい、おかげが欲しいと、寝言にでも言いよる、そこにはもう神様が、おかげをこちらの方からもっていってやってござるといったようなおかげにです、なってくるとこう思うんですね。
 そこでその、憧念心を、ほんなら自分達の心の中に頂きたいと、そこでいわゆる古賀先生じゃないけれど、やはり通るところを通らなければ、ひとつ分からないというようなことが、分かるでしょ。桜井先生においてもしかりです、今度例えば、ご無礼した、こけたことがです、ご無礼になる、こけたことが椛目参りが疎遠になるった。その先にです、今度は、椛目が慕わしゅうなってきたとき、桜井先生のほんとのおかげがたつのじゃないかと、私は思わせて頂くです。
   おかげを頂きました。